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2011年07月29日
偉人。
甲子園で春夏3度優勝の木内幸男監督(80)が率いる常総学院が27日、茨城大会準決勝で藤代に0‐2で敗退。
今夏を最後に勇退することを表明しており、これがラストゲームとなった。
「木内マジック」と呼ばれる巧みな采配が持ち味の80歳の名将は「やっと解放された」とガハハハと笑って最後の夏を終えた。
◇ ◇
すべてをやり尽くした。最後の指揮を終えた80歳の木内監督の表情は晴れやかだった。
ラストサマーでの甲子園出場は逃した。だが、時折、トレードマークの満面の笑みをのぞかせた。完全燃焼の証しだろう。
「年齢的にこれ以上は無理なんですよ。やっと解放された、みなさんから。ガハハハハ。これで甲子園にいったらパンダになっちゃうよ」
この日は好機でもスクイズを使わず、強気に攻めた。だが、勝負どころであと1本が出ず、完封負け。
鋭い当たりが再三、野手の正面をつく不運もあったが「(投げる)コースがいいから、打っても正面に飛ぶ」と一切の言い訳をしなかった。
1953年に母校・土浦一の監督になり、約60年にわたりタクトを振るった。
若かりしころは文字どおり野球漬けの日々。取手二の監督時代は「茨城でグラウンドにいる時間が一番長かった」と豪語するほど、選手とともに汗と泥にまみれた。熱血指導で甲子園出場22回、全国優勝は3回。
「非常にいい人生を送らせてもらったけど、家内をはじめ、家族には迷惑かけた」。
家庭を犠牲にしてまで野球に熱中した。
03年夏の全国制覇後、いったんはグラウンドから退いたが、07年に現場復帰。
だが、今春、監督を辞めることを決意した。03年勇退後に腎臓がんの手術を受けるなど、健康面に不安を抱えていた。
「病院とグラウンドを行き来するようでは選手に闘争心は伝わらない。
がんを治療するには今しかない。病院を待たせているから」。
以前は4日に1日のペースで休暇を取っていたが、今大会前は連日猛暑の中、グラウンドに立ち、大きな声で指導にあたった。
後任は佐々木コーチの昇格が有力だ。老将は今後の生活について問われると、それまでの明るい表情が一変。
「どうやって野球をやりたい衝動を抑えっかな」とちょっぴり寂しそうだった。
【インターネットより抜粋】
茨城県の高校野球を支えてきた大御所が勇退となった。
今や野球を知らないヒトでも知っているであろう木内監督。
私にもこんなエピソードがある。
野球少年だった小学生の頃・・・
木内監督率いる当時の取手高が夏の甲子園で桑田・清原率いるPL学園を捻じ伏せ
全国制覇を成し遂げた。
凱旋パレードを見に行き『俺もあーなりてェ~』と心底思ったことを覚えている。
そしてすぐに取手二高の文化祭があった。
当時アイドル並みの人気があった取手二高野球部ナイン。
小学6年生だった私は友達と選手に会いたくて高校の文化祭へ行った。
もちろん見渡す限り小学生は我々2人だけ。
ヤンキー姉ちゃんに具無しのお好み焼きを無理矢理買わされた!?^^のを忘れはしない。
しかも2個も・・・
中々現れない野球部ナインにしょ気ながらグランドの横で具無しのお好み焼きをほお張っていた。
すると一人のおじさんが現れ笑いながら・・・『坊主こんなところで何やってんだ?』と・・・
『甲子園に行った選手に会いたくて来たんだよ!!』と返す。
するとニヤニヤ笑い消えていった。
少しすると戻ってきたおじさんは野球のソックスを我々2人にくれた。デカ過ぎるが・・・
『これで今日は帰りなさい。知ってるのか(親)ここに居ることを?お父さん、お母さん心配するだろ?』
『そんなに好きなら高校で野球やりなさい・・・頑張ってやりなさいよ。』と
それから歩き回っていたがヘタクソなバンドが体育館でテンションバリバリに奇声をあげているのを横目に・・・
結局選手達を見たのは、2階のベランダに全員が出て来たときだけだった。
あの時の歓声は忘れられねェ~な。
瞬時に2階に駆け上がろうとしたがあえなく先生らしき人に『ダメ!!!』と言われ帰された。。
渋々チャリで遠い家まで2人で帰った。
何日かするとTV番組で『取手二高優勝までの奇跡』的な特番があり食いついて見ていた。
するとインタビューで出てきたおっさんが!!『あーあーあっ!あのおっさんだっ!!』
そう木内監督だったのだ。
幼い私は選手ばかり見ていた。まぁ普通そーなるよねェ。
それから数年後、私は高校で野球をやり取手二高ではないが運良く甲子園へ出場した。
勇退のニュースを聞いて記憶がフィードバックする。
木内監督は様々なところで多くの人に影響を与え魅了してきた。
生涯『野球人』
多くの感動をありがとうございました。
ゆっくり静養してください。
PS:まぁ木内監督は覚えてないだろうけど。。。俺は生涯忘れませんわ!!
THANK YOU ALL!!
To be continues...
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2011 Never give up the dream.
2011年07月29日
時代。
9回裏、波崎の鈴木選手(3年)が遊ゴロに打ち取られ試合が終わると、野口さん(3年)もベンチから出て、他の選手たちと応援席の前に並び、深々と一礼した。
県内の高校野球部で唯一の女子部員としての3年間が終わった。
高野連の規定で選手として出場できないため、大会中は、背番号のないユニホームに身を包み、記録員としてベンチ入りしてきた。
肩の下まで伸ばした長い髪を赤いゴムで一つに束ね、野口昭雄監督の隣に座り、スコアつけに徹してきた。
練習メニューは他の男子部員と同じ。野口監督も「100メートル走を20本、30本やってもへこたれず、ずっとついてくる。とにかくめげないで、何事も一生懸命です」と評価する。
小学4年の時、野球をしていた兄の影響を受けて野球チームに入った。波崎第一中時代は試合に出場し、一塁を守った。 高校の3年間、練習を終えて下校してからも、家で素振りを欠かさなかった。母は「本当に野球が好きなんでしょうね」と笑う。
この日の佐竹戦。
スコアシートに記録を書き込みながら、「切り替えてやれ」「強い気持ちを持って」と、戻ってきた選手に声をかけ続けたが、惜敗した。
試合後、ひざを抱えて球場外の壁にもたれかかるようにして座っていた。
「まだ終わった気がしない。楽しかった気持ちと寂しい気持ちがまざっていて」とぽつり。
そして、「やっぱり高校野球は違う。野球をやってきた9年間の中でも、一番大きな3年間でした」と語ると、涙がこぼれ落ちた。
【インターネットより抜粋】
私が高校球児だった頃から約20年が経つ。
ふとこの記事を目にした。
ある一人の女子部員。
同じ釜の飯を食って同じ練習、同じ時間を過ごす。
『大会規定』
これにより選手としては出場できない。
これいかがであろうか?
ここから少しずつ有り方が変わることを願うばかり。
先駆者のまっすぐな瞳にウソは無い。
同じ高校球児には違いないハズ。
これから先のあなたの人生『野球』は最大の糧になることは間違いない。。
これからも頑張って欲しい!!
しかし・・・スポーツは最高ですな^^
THANK YOU ALL!!
To be continues...
LOVE&PEACE
2011 Never give up the dream.
2011年07月29日
青春の謳歌。
昨日、母校の決勝戦。
昨年は惜しくも決勝でサヨナラ負けの惜敗。
夢を掴むことが出来なかった。
今年こそはとOB達も沸きあがっていた。
9回2アウトまで5-4と僅差でリード。
あとアウト一つ。
あと1球。
球場が歓声で包まれた。
終わったのか!?ゲームセットか!?
思いとは裏腹に同点打だった。
そして畳み掛けられるかのように逆転サヨナラ。
こんなことが起こりうるのであろうか!?
恐るべし高校野球。
最後の1球まで何が起こるか分からない。
仕事中に応援に駆けつけている同僚から電話が鳴り響く。
見てられない。
声にならない。
しびれるわ!!
我々が甲子園の土を踏んでから20年が経つ。
我々が20歳の時、生まれた球児がグランドで戦っている。
月日が経つのは・・・こういったところから思うのですな。
中々近いようで遠い甲子園。
だが出場だけが全てではない。
そこに行くまでの貪欲な日々の積み重ねが大切。
それが今後社会で確実に活きていく。
経験は何事にも変えがたい。
彼等にとっては大きな財産。
それが財産と気づくまではもう少し時間がかかるだろう。
私もこの歳になってようやくそれが財産だと気づいた。
夢を持って歩んできた人間はまた夢を見つけられる。
しかし夢は見るものではなく掴むものだ。
そんな大人になって欲しい。
これからも今の悔しさや楽しさを忘れず頑張って欲しいものです。
ありがとう!後輩達!!
THANK YOU ALL!!
To be continues...
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2011 Never give up the dream.